前橋教会の歴史〜県下の教会の今昔
(7)戦後・・・昭和20年代〜発展途上
1945年(昭和20年)8月15日、終戦となりました。しかし、秩序は容易に回復せず、物資不足、食糧難が続きました。進駐した兵士たちには信者が多く、敗戦国であるの前橋の信者達に対しても、丁重に扱って下さいました。戦災により見渡す限り廃きょとなった市街地も、日を追うに従って整理され、所々に戦災住宅が建ち始めました。
1年程経た1946年、水戸からロック・カルぺンチェ神父様が月二回位巡回下さいました。そして1947年8月、東京教区荏原教会からシャルボノ・ぺト口神父様が来られました。荒れた聖堂もよりよく修理整備され、教会も見ちがえるほどによみがえりました。神父様は、駐留軍統治下にある信者達に愛の手をのべられ、毎日ジープで救済や病人訪問、布教と休むひまなく働かれました。神父様ほ1949年4月、休暇で帰国され、その後、栃木県の佐野教会へ主任司祭として行かれることになり、前橋を去られました。
1949年(昭和24年)4月、ぺト口神父様の後任に、再びロック・カルぺンチェ神父様が来られました。
戦後の日本は、宗教活動も真の自由を得て、神父様も活発な活動をされることができました。西に東にジープを走らせて御活躍されました。御多忙の生活の中で、駐留軍との連絡をとられ、戦後の混乱した時代の青少年のため、ポーイ・スカウトやガール・スカウトの育成に力を入れられました。
若い信者達の団委員やリーダー達を育てられ、前橋市において第四団、第五団として立派な団が誕生したのも、神父様のおかげです。
又、特記すべきことは、当時戦後の混乱した時代に帰る場所を失った不幸な青少年の世話に挺身されたことです。倉賀野町に養護施設「フラソシスコの町」を建設されました。その後、現在の群馬町に新築移転され、カトリック精神に基づいた教育が続けられています。</P>
1949年(昭和24年)6月、聖フランシスコ・ザビエルの四百年祭に当り、口―マ・キリスト教会に保存されていた聖ザビエルの右腕が空路日本に送られました。到着後、イグナチオ教会に安置されて、盛大な記念ミサが捧げられました。全国教会より多数の信者が参列し、前橋からも有志の信者が上京しました。
これに統いて一週間後の同年6月19日、おそらく群馬県下においては初めての、聖体行列が前橋教会で催されました。内野教区長様も来橋され、桐生、足利等の信者も多数参加し、野外ミサと共に行われました。
この頃伝道士として菅野氏一家が着任し活躍されていました。
ロック神父様は、在任一年半有余で信者におしまれつつ鹿沼教会へ転任されました。現教会の西北隅にある木造二階建ての旧司祭館は、ロック神父様が手持ちの資材や私費を投じて建設されたものなのだそうです。
1950年12月、ロック神父様の後任として、足利教会より牧野神父様が来られました。
内野教区長様に次ぐ二人目の邦人司祭であり、着任早々から沼田、館林又、埼玉県の本庄や深谷、熊谷あたりまでジープを走らせて布教に専念されました。又、ロック神父様がのこされたボーイ・スカウトやガール・スカウト、姉妹会等の他に役員会、壮年会、婦人会、等の発足に力を注がれました。
1951年(昭和26年)9月、内野教区長様は、中国よりたまたま来日されたルイス・ジョイス師(米国ニューヨーク管区フランシスコ会)にこの群馬地区の布教を要請されました。ここで群馬全域がニューヨーク管区フランシスコ会に移管しましたが、牧野神父様は引き続いて在任されました。
当時の教会は発展の途上にあり、諸行事が数多く行われていました。中でも盛大だったものは、1953年(昭和28年)5月17日に行われた、全群馬合同の第3回聖体行列です。ヴァチカン大使ド・ヒュルステンべルグ大司教様や、内野浦和教区長様、セルスス・ウィラーニューヨーク管区長様等を迎え、前橋教会創立以来の盛典でした。
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