前橋教会の歴史〜県下の教会の今昔
(6)浦和教区の誕生〜戦争の時代
1938年1月に、内野神父様とマリエン神父様の歓送迎会が行われました。マリエン神父様は足利教会を兼任され、1年間くらい在住されました。
ここで前橋教会は横浜教区に所属しました。間もなく1939年(昭和14年)1月、埼玉・群馬・栃木・茨城の四県に再度分立して新しく浦和教区が誕生しました。この教区はカナダ管区フランシスコ会に委管され、新管区長にアンブロアーズ・口プラン師が任命されました。そして同会員のパントン・レオンス神父様が主任司祭として前橋教会に来られました。
これによって前橋教会の雰囲気もずいぶん変わりました。それ迄の厳しさから、近代的というか、ゆるやかさが感じられるようになりました。レオンス神父様は小柄なやさしい方でしたが、1年余後の1940年5月12日の聖霊降臨の祝日に、休暇で帰国されることになりました。やがて戦争が始まり、再ぴ日本へは帰られず、南米で働かれたとのことです。
レオンス神父様の後は、浦和からアレキサンダー神父様が3回程巡回して下さり、1940年8月からは桐生教会よりエルネスト神父様が翌年3月迄巡回して下さっていました。
エルネスト神父様の後をついで1941年3月、マリエン・ボナン神父様がいらっしゃいました。しかし、当時は支那事変から太平洋戦争にまで発展する途上にあり、邦人司祭の召集等から司祭不在の教会が多かったそうです。外人司祭への監視も厳しくなりましたが、神父様方はその不自由の中をよく前橋教会の為、お尽くし下さいました。
しかし、同年12月8日ついに戦争は太平洋戦争にまで発展し、カナダ管区フランシスコ会の神父様方は同日、保護収容となり、前橋教会は再び司祭不在となりました。聖堂の御聖体も安置されないこととなり、同年のクリスマスは御ミサも捧げられなかったのです。その中を、浦和から内野教区長様が数度来られ、ミサが捧げられました。
戦争はますます烈しくなり、信者たちもほとんど疎開し、前橋に在住の方はわずかになってしまいましたが、東京教区の深堀神父様が年に数度巡回して下さり、辛うじて教会を維持することが出来ました。
空襲下、神父様とともに地下壕に逃げこむことも再々あったそうです。
1945年8月5日、前橋は大空襲に見舞われ、多数の焼夷弾を浴びてたちまち火の海と化しました。前橋市街地の8割は焼失。荒れ狂う火焔は空をおおい、爆風は聖堂の窓を押し開き、南側尖塔はついに焼け落ち、床に延焼してしまいました。信者たちは夜を徹して、用意された天水桶の水をバケツリレーして消火しました。幸い教会は焼け残りましたが、見渡す限りの焼野原に信者達はなすすべもなく、空白の数日を過ごすのみであったそうです。同年8月15日に終戦、程なく米軍の進駐となり、前橋教会は従軍司祭を迎え運営されるようになりました。荒れた聖堂も修理され、教会は米軍兵士達で大変賑やかになり、その年のクリスマスは、聖堂に入りきれない程の人でした。
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大正末期〜昭和初期:内野神父様のご活躍、現聖堂完成 |
前橋教会の歴史 |
戦後・・・昭和20年代〜発展途上 |

