メインメニュー
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
検索
アクセスカウンター
today
yesterday
total
FROM 2007/3/15
トップ - メニュー  >  大正末期〜昭和初期:内野神父様のご活躍、現聖堂完成
前橋教会の歴史その5

前橋教会の歴史〜県下の教会の今昔


(5)大正末期〜昭和初期:内野神父様のご活躍、現聖堂完成

内野神父様が来られたのは、関東大震災のあった大正12年の秋も末の頃でした。初めて迎える邦人の司祭で、その真黒な髭が特に印象的だったそうです。内野神父様は学校を卒業後、長い間社会生活を送られていました。当時のモダンボーイであり、社会的にも大活躍されていた方でありましたが、感ずる所あって明治40年8月15日、31才で受洗されました。次いで東京大神学校に行き、メイラン神父様に教えを受けられ、大正10年6月25日、45才で叙階。同12年に前橋教会の主任司祭になられました。
内野神父様が来られてから教会は活気を盛り返しました。神父様は県内は勿論、足利や館林、本庄等も回られ、その布教ぶりは涙ぐましいものがありました。

翌13年、前橋市発展の為に区画整理が行われることになりました。教会も協カして、南北に通ずる五間道路が完成しました。これに伴って収入源となる固定資産の所有は許されない所となり、各々に売却され税金免除となって現在の教会となりました。この多忙の中、内野神父様の活躍はめざましく、殆どお休みの時を見たことがなかったといいます。
内野神父様の人徳を慕い、来客も多かったそうです。東京からは神父様方をはじめ著名人、例えば詩人の三木露風氏等、近くは県庁や市役所、会社の役員、又、貧しい不幸な人連も多かったといいます。
神父様は、当時の水平運動等にも深い関心を示され、自ら先頭に立って、これらの人々の為に劇場で講演会を催されたこともありました。又、事業家という側面もありました。健康増進の為、米食だけの食生活を改善しようという信念から、東京関口教会の信者である高世政吉氏と共に、フランスパン工場の創立に寄与されました。 1930年(昭和5年)頃、大聖堂建設の計画が立てられました。

これは当時としては容易な事業ではありませんでした。その計画に当たって神父様は、あらゆる教会のスタイルを研究し、設計され、又、資金調達には並人ならぬ苦心をされました。金策の為、自転車で上京されたこともあります。それらには多くのエピソードやトラブルもありますが、神父様の血と涙の努力で無事に解決しました。神父様が、建設資金の一割近くの大金を汽車の中に忘れられたことは有名な話ではありますが、それ程までにお忙しかったのでしょう。幸いにも高崎駅で、信者の駅員の方にひろわれ無事に戻ったそうです。
1931年(昭和6年)5月。待望の大聖堂起工が開始されました。当時、総建設費は約7万余円といわれました。約1年後、ゴシック式を取り入れた豪華な聖堂は完成し、フランスからは立派なステンドグラスが取りよせられました。

1932年(昭和7年)11月3日、当時の明治節の佳き日に、盛大な献堂式が行われました。東京よりシャンボン大司教をはじめ、メイラン、外岡、瀬野、荒井、大越、コサールの各神父並びに40名あまりの神学生が来橋されました。
10時から聖母像と祭壇の祝別、祝;サ。その後聖堂前で記念撮影、祝賀式が行われました。各教会の信者方をはじめ県知事代理、市長その他知名人の祝詞や挨拶が行われた後、群馬会館のホールで昼食会が催され、盛大な式典となりました。
当時は高い建物が少なく、前橋の一角にそびえ立つ2つの尖塔は名物の一つとなりました。

1938年1月29日、上司の命により、内野神父様は神田教会へ転任されました。送別会や駅への見送りは固く辞退されたので、信者たちは門前でお別れをしました。

プリンタ用画面

前
大正時代
カテゴリートップ
前橋教会の歴史
次
浦和教区の誕生〜戦争の時代