前橋教会の歴史〜県下の教会の今昔
(4)大正時代
ジロジャス神父様が小田原に転任された明治45年(大正元年)7月、後任者としてドラエ神父様が細渕伝道士を伴われて来橋。広く群馬県下の布教に活躍されました。
後継者となられたルシアンドラエー神父様は29歳。日本語もかなり堪能であり、容姿端麗で聖心の額を思わせるようだったそうです。前橋を中心に、各地を巡回されました。その多忙の中にも大変御苦心をされ、1913年頃(大正2年頃)初めて聖堂を建設されました。フランスからは素晴らしいオルガンや、豪華なシャンデリア等が送られてきて、その美しさには目をみはるものがありました。
ドラエー神父様は信者たちを本当に愛して下さる方でした。しかし教えについてはかなり厳格であったようです。当時の教会の習慣として、神社や仏閣への参拝、死者への焼香は許されませんでした。また、家庭の中に仏壇、位牌等を置くことも、一切許されていませんでした。
ドラエー神父様は、大正3年3月頃、静岡の富士女学校の校長に転任され、前橋教会は司祭不在となりました。月1回位、プラチドメイラン神父様が巡回して下さいました。細渕伝道士も1年位で当地を去られました。メイラン神父様は、八王寺教会の主任司祭でしたが、誠に博学な方でした。その深遠な知識と広洲な経験の許に「改訂公教要理」の委員となられ活躍されました。名編纂書として「公教提要」(昭和5年発行)があります。また東京大神学校で教鞭をとられ、多数の司祭養成にあたられていました。
1918年(大正7年)に第一次世界大戦が勃発し、パリ外国宜教会の司祭方は多数召集を受け帰国されたため、司祭不在の教会が増加しました。メィラン神父様はその多忙の中を群馬県下の教会をはじめ、各地に散在する信者の家庭を巡回して下さいました。乗物は汽車のみで、そのほかは歩き。寒い吹雪の日も、焼けつくような炎天下の日にも、月1回は必ず信者の為に尽くして下さいました。遠方に散在する家庭では蚤にせめられ、一睡もできない日もあったとか。神父様は「納豆」と「とろろ」はどうしても食べられない、と笑われたそうです。
当時は教会維持費の徴収はなく、戦分でフランスからの援助もなくなり、経済的に貧しい教会となっていました。貸屋から上る僅少の家賃は、維持費や国税、地方税等の納付に当てられていた様でした。全く無人となった教会の為、信者の家族が大正5年にメイラン神父様の依頼で教会に移り住みました。メイラン神父様の献身的な巡回は、9年余りにわたり続けられました。
パリ外国宣教団の神父様方は、命ぜられた土地に行く時、「又、天国で会いましょう」と肉親や知人に別れの言葉を話されたとのことです。メイラン神父様は1923年(大正12年末)前橋を去るに当り、その愛弟子である内野神父様をお連れ下さいました。次は、そのご活躍を述べることにいたします。
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創立当時の前橋教会の様子 |
前橋教会の歴史 |
大正末期〜昭和初期:内野神父様のご活躍、現聖堂完成 |

